わざわざご来店していただいている感謝を忘れまいとする誓いの言葉。
太郎庵では毎日お客様を最良の状態でお迎えするために
お店のスタッフと工場のスタッフ全員が『本日開店の心』を胸に刻み 仕事に勤しんでいます。
『本日開店の心』
私の父と母は自宅の前に川の流れる裏通りでお菓子の卸しをやっていました。
手で1個1個作り、次の日、自転車の荷台に菓子箱をうず高く積み、町の小売店さんに卸して行くのです。
店がないので暑い夏の日も、雪のたくさん降る寒い冬も出かけなければ一円の売上げにもなりません。
朝早くから夜遅くまで、寝る間も食事をする間も惜しんで仕事をしていた二人でした。
学校へ行く前の私は、その工場で両親の黙々と働く姿を見て育ち、早く大きくなって楽にしてあげたいと思っていました。
私が菓子屋になるきっかけは、親孝行するというのが一つの動機でした。18才からの菓子の修行、そして20才になって東京へ行ってからは、きまって冬になると会津が恋しくて帰りたくてたまらなくなりました。
「表通りに店をもちたい」その志が心のささえでした。そして多くの出会いの中で、気づきと学びをいただきました。22才のころ通っていた夜学の商店経営という講座の最終の日、先生に「会社とは社員の方が幸せになり、やりがいをもって仕事をするという事と、会社が利益を出し永続発展するという事の二つの調和の中にあるんだ」と教えていただいた時、目の前がパッと明るくなり、そんな会社なら絶対やってみたいと思いました。
23才の冬、仕事の帰りに和菓子屋さんで餅菓子を買って帰り、お茶を入れて食べようとした時、シュッシューと音を立てるやかんの音色が会津で聞いていた汽車の汽笛に聞こえました。一口菓子を口にふくんだ時の体が熱くなる感動を忘れもしません。菓子は人の心をあったかくするものなのだと気づいたのです。その時、私は会津に帰る決心をしました。そして、2つの誓いを立てたのです。ひとつ、菓子で人の心をあったかく幸せにする。ふたつ、会津ってこんなにいい所なんだと菓子を通して伝えて行こうと。
24才で会津に帰り、父と母のやっていたお菓子の卸しから初めました。
自転車ではと軽の360ccの箱型の車を買いましたが、夏は売れず、冬になると裏通りにあった自宅兼工場から表通りには雪を片付けないと出られませんでした。
最初に「いも太郎」という菓子をつくり会津若松や芦ノ牧の観光地に卸し売店で売る手伝いをしました。
会津に帰って5年後の1979年1月に店を出すチャンスがやって来ました。
太郎という名は会津にあっても日本を代表する菓子屋に、お菓子の蔵はおいしい夢がいっぱいつまっているという意味に、シンボルのランプはおいしさで温もりのある灯をともすというその燃える情熱を炎の赤に託しました。
待ちに待った本日開店の日は雪が降っていましたが、そんな天候でも多くのお客様に来店していただけました。
私は自宅を改造した工場で菓子を作っていて店には行けませんでしたが、店から次々と入る注文に対し、この生クリームを絞る、饅頭を作る指先の向こうにお客様がいらっしゃっている事を実感しました。
そして「本日開店の心」わざわざご来店していただいている感謝を忘れに誓いました。
人も会社も生きている使命があります。この世に存在し成し遂げなければならない役割があるから今ここにあります。
太郎庵宣言はその心を言葉にしたものです。それは一生をかけて取り組む私の命の使い道でもあります。幸せ文化を創造する太郎庵はお客様と社員の方々が幸せになる会社です。お客様の喜ぶ顔、社員の喜ぶ顔を見るのが私にとって一番の喜びと幸せです。
今日も いい日 感謝
太郎庵創業者 目黒督朗